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初めて新水俣駅に下りる。
熊本駅7:55リレーつばめで新八代
新八代8:18つばめで新水俣着8:32
広大で立派な駅舎。まだ早いせいなのか、乗り降りの人がいないのか閑散としている。いつの日か賑わうことになるのでしょうか。
9:00発JRガ用意したシャトルバスで連れて行かれたのが
水俣の山の上。
そこは広い茶畑が広がっていた。
製茶工場もある。
空気は澄んでいていいお茶ができることでしょう。ところどころでお茶菓子とともに接待されたお茶はおいしかった。
水俣はお茶の産地としても知られているらしい。
その高台というより山から湯の鶴温泉を望む。
山間の集落はいかにも桃源卿にみえる。
強い陽射しがないので良い気分でくだる。
背高あわだちそうもきれい。
途中で湯出の七滝のうち
のれん滝 と小滝まで行ってくる。
小滝 こんな道を700m行くと
出会える。山中をどんどん行くと
いろんな滝があるが今日はここ
まで。
温泉街 ほんとうに、ほんとうにひなびた温泉。それは想像したよりも。
一度来て見たいという思いが
かなった。
湯の鶴温泉
参加者は100円で入湯できるので、あさひ荘に入った。
お湯はコップがあったので飲用可。
ことさら「飲用できます」などと云わないところがいい。
あさひ荘
あさひ荘の内湯
あさひ荘の露天ぶろ
帰路は肥薩オレンジ鉄道で。
新水俣15:50 八代16:46着
駅前の鮎屋三代のお弁当を買いに走り、16:55のJRに乗る。熊本に17:38着。
遠いわりには早く帰ることが出来た。
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『ハイキングクラブは、本日、KSN第49回ハイキング(三俣山登山)を実施し、予定とおり「三俣山頂の踏破」を果たし、全員無事に終了 いたしましたので、ご報告いたします。
参加者は20名で 男性15名、女性5名でありました。
特に、本日は、霧が強風にあおられて、晴れ間がなく寒々とした
悪天候に生憎と見舞われて、折角の紅葉写真の撮影も満足なもの
を撮ることが出来ず残念でありましたが、それは、それなりに 色々
な自然現象にであい、貴重な経験・体験になった面があり大きな
成果があったと確信いたします。
本日参加の皆さん、本当にお疲れ様でございました。(部長 報告メール) 』
三俣山 竹田市久住町と玖珠郡九重の境界にある山 1,745m。
本来だとハイキングは第2水曜日に実施される計画であるが、最良の紅葉の時期に合わせるべく1週間遅らせたもの。
事故防止の釣鐘がある。
ゴール近くになり、ごろごろ石の足場が定まらず、あっちこっちに踏みしめての下山で、膝がピリ、ピリ痛くなり1年前のぶりかえしかと心配したが、ひどくならなくてよかった。
今日の締めの温泉は「やまなみ荘」
掛け流し。とてもいいお湯でした。
九重も温泉の宝庫。
[温泉はは順調に出ております]と。
大浴場
バラは浮かんでおりませんでしたが、窓の外は紅葉が望めました。
phot story by MR HAMADA
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このTシャツはこの年の夏、葉山の森戸海岸で開催された1995葉山サンセット・ジャズ・インのものです。
森戸の浜に大きなステージをつくり、
夕日が美しい葉山で夕日とジャズを楽しむというイベントでした。
東京や横浜、近在の人が大勢詰め掛けました。
浜を縄でかこった会場に入るのに確か千円はらいました。
そのかわりアサヒビールが大きな水槽に冷やしてあり、飲み放題でした。
なぜアサヒとおもいましたが後日、海岸と道路をはさんだ山手にあった高橋某氏の別荘の跡地に巨大な研修所兼保養施設が出来ましたので、そのご挨拶の意味があったのかもしれません。
出演者は日野皓正、山下洋介、小野リサ ほかでした。
このイベントは1回きりでした。パンフレットがあったのに失くしてしまい、主催者、協賛会社がどこであったかわかりません。
横浜の鶴見から葉山町堀内に転居したのは1995年4月でした。
家人は永年勤務した会社を57歳で定年退職し2次の就職先のある新宿に通っていました。
65歳まで勤務できましたが、葉山からだと遠くなるのを嫌って退職しました。
葉山に来てみると都内へお勤めのかたは沢山ありました。
葉山からはJR逗子駅や京急逗子駅へ出なくてはなりません。
バスを利用される方もありましたが、ほとんどは奥様が車で駅まで送りました。
駅前は車が列をつくりました。
余談ですが、堀内に曽野綾子氏も別邸がありましたが、別荘族ばかりではなく、都会からの移住者も増えてきて、朝の通勤、夜の帰宅やらせわしない光景に会うのがイヤになってしまったとのことで三浦の先へ転居なさいました。海の見える高台で野菜など作っていられる写真がグラビアに載りました。
私はといえば55歳で10年勤めた会社を3月に退職し、1ヶ月あまり転居の準備をいたしました。
永年家を空けていたもので物を整理するということもなくいましたので、今後転居先でも使うもの、ここで整理してしまうもの、毎日家に居られる時間を楽しんでゆっくり、ゆっくり片付けていきました。
次女が横須賀に住み仕事を持っていましたが、第2子が生まれることになり、なにかと手助けができるように横須賀の隣町葉山の新築マンションに買いかえたわけです。
それまで鶴見から転居する気持ちがまったくなかったわけではなく、余生はどこか静かなところでと漠然と考えてはいましたので、きっかけになりました。
その年の10月に2人目が無事誕生し病院から葉山の家に戻ってきました。
上の子は横須賀市衣笠の保育園に行っていましたので、葉山から衣笠まで家人が送り迎えをしました。35分ぐらいかかったでしょうか。
上の子は4歳でしたが、娘の入院中は一人でじじばばの家で待ちました。ちょっと神経を使いました。
カレンダーを手の届くところに貼って夜寝る時に日付を1つづつ消させました。
保育園でお迎えを待つ間、砂場で遊んでいるのですが、家人が呼ぶと猛烈に走ってきて飛びついてきて砂まみれになったと今でも語り草になっています。じいじは嬉しかったに違いありません。
娘が仕事に戻るまでの1ヶ月間は、産後の運動をかねてベビーカーをおして2人の孫と娘と私、葉山の別荘や保養所の間の路地を散歩しました。
今まで一人っ子で大事にされていた上の子は自分もベビーカー乗りたいとだだをこねましたが2,3回言ったきりで、傍を歩いてついて来るようになりました。
状況をだんだんと判ってくるようでした。
最後に浜に出て海風にあたって帰りました。
仕事に復帰した娘はつごうで帰宅が遅くなったり、出張で遠方へ出向くときは、2人の孫を預かりました。遅い時は娘も葉山に戻って3人で泊まって翌朝仕事に向かったりしました。
子供たちが来ると、なんといっても海でした。防波堤をはさんで、逗子寄り、葉山マリーナに近いほうに、磐場とまではいえませんが磐板がごつごつしたところがあります。
そこには生き物がたくさんいました。「はやまのむこうの海」 と言って上の孫の大のお気に入りの場所でした。砂浜へでてからそこまで歩きましたから、向こうのほうにあると感じたのでしょう。生き物の名前も良く覚えて沢山知っていました。
家人が一緒の時は森戸神社の下、裕次郎の碑のところで、海につかって遊びました。
砂浜を歩きながら、私が瀬戸物のかけらを拾うので子供たちもいっしょに拾ってくれました。
これを引越し荷物のなかにいれて熊本まで持ってきました。
葉山ではよくコンクリートに埋め込んで塀や玄関のアプローチで見たことがあり、なにか出来そうと思ったからです。
プラスチックの鉢に貼り付けることを思いつきました。
ただ円筒ですので面を埋めるのにすんなりとはいきません。陶片自体、形は千差万別。
分厚いところと薄いところがあるし、なかなか面に沿ってくれません。
初めは真ん中にセメダインタイルエースをつけて、貼っていましたが、終いにはたっぷり、はじからはみ出すぐらいに塗って止めました。
目地で埋めるとき差しさわりがあるかと思ったのですが目地剤はしっかり埋めてくれました。
残った破片。
まだ2つ3つできるかな。
出来たもの
どことなく単調かしら? 同じぐらいの大きさのカケラばかりで面白味に欠けるよね。小さいかけらが所々に入ったほうがいいことに気がつかなかった。
小さいカケラにはつい拾わなかった。
子供たちもこんな大きさばかり拾ってくれたしね。
でも、大事なたからもの。
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以前、アニメ映画で見た。
(1988スタジオジブリによる)
とても憐れで悲しかった。
涙なしでは見られなかった。
2005年にはテレビドラマになった。
今回の3度目の実写映画化はあらすじが判っていたからか前のようには涙は出なかった。
アニメ映画の印象が強すぎた感がある。
日向寺監督は戦争体験のない世代の自分がはたして・・・・という思いが浮かんだという。
佐藤忠男氏は戦争体験のある人々が亡くなっていって、これから戦争をどう語り継いでいったらいいでしょうと聞かれるとき
「確かに私は戦争を経験した。しかし戦争全体を経験したのではなく、そのほんの一端にすぎない。
あの戦争の全体像らしいものを把握したのは戦後に得た多くの知識によってである。
いまごろやっと得られるような情報もある。
戦争体験者よりも体験は持たない世代の方がむしろ戦争の実態を広く深く体系的に知っているといえる」という言にはなるほどそういうものかと思った。
原作の「火垂るの墓」はすでに戦争体験から生まれた文学作品の古典となっている。
後々まで語り継がれ、そのたびに解釈されなおして意味を深めてゆくべきものともいっている。
実際アニメやテレビ映画にはなかった清太が「どじょうすくい」を踊るところが加わっている。
また清太(吉武怜朗・よしたけれお)に援助の手を差し伸べようとする校長先生、病気のために徴兵検査を不合格になり怠惰な暮らしを続ける学生、町内の防火訓練を指揮する町内会長の3人が新しく加わった。
原作は記録のようではあるが、小説である。
中学3年の野坂昭如は戦争でなにもかも失い、1歳4ヶ月の妹を連れて逃げた。
この妹に語らせるために4歳ぐらいの言葉が話せる幼女にしたてた。
節子(畠山彩奈・はたけやまりな)は抱いていたイメージぴったりだった。愛らしくてそれゆえ憐れが一層募る。
江東区の八名川小学校の生徒の感想いくつか・・・・
3年生・ 写真が燃えただけで校長先生が死 んでしまったので悲しかったです。
4年生・ この映画を見て戦争は爆弾とかばかりじゃなくて、食べるものも住むところもなくてそれで死んでしまう人が沢山居るのだということを 知りました。
私はもう戦争が終わったこの東京に生まれてきて本当に良かったと思いました。
5年生・ 人が苦しむ姿を見ても、戦争を止めようと思う人が居なかったことを不思議に思う。
6年生・ 人を殺して何が面白いのかと思う。
昔の人は命を大事にしないんだなと思った。
・ これが実際にあったなんて思いたくないです。戦争はむごい。
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バスは山を分け入り、やっと通れるばかりの道をどんどん進んで着いたところが大分県日田市
皿山を中心とした小鹿田の里。
里への清流にかかる橋。
やきものまつりにやってきました。
唐臼祭 5月 3・4・5日 民陶祭 10月第2土・日曜日。
道路にそって並んだ窯元が軒さきに焼いたものをならべている。
祭りといえども静かなもの。 鄙びた風景が懐かしい。
平成20年3月には地区全体が「小鹿田焼の里」として重要文化的景観に選定された。 こちら
小鹿田焼は その陶芸技法が平成7年に国の
重要無形文化財に指定された。
飛び鉋のうつくしい大鉢。径40cmもあろうか。ゆたかな気持ちになる。
小鹿田焼の原土(陶土)は、すべて集落周辺の山からの自給。
皿山は集落全体の地質が厚い陶土層で形成されている。
採土作業は年2~3回共同で行われ、掘り出した原土は各窯元で均等に分けられる。
原土は川の水を利用した唐臼で2週間程度かけてつきあげ、それを水に浸し、こしてから鉢に移して乾燥させる。
唐臼 陶土をくだく臼 このギーゴットン、ギーゴットンとのどかな音は
日本の音風景100選に選ばれている。
こちら
中心部にある共同登り窯
↓
小鹿田焼は、現在10の窯元があり、開窯当時以来、一子相伝で小鹿田焼の技術や伝統を守りつづけています。
したがって窯元は10軒より増えません。
10軒の窯元を順に見ながら下りてきて、一番はじの
小袋窯元でお抹茶で一休みして、その「飛び鉋」の抹茶茶碗を買いました。「刷毛目」のお皿は坂本窯で。
↓
小鹿田焼の主な技法は
打ち刷毛目、飛び鉋、指描き、櫛描き、打ち掛け、流し掛け など。
「明治、大正まであまり目立つことなく半農半陶で近在の生活必儒品として静かに焼かれてきた小鹿田焼が注目を浴びるようになったのは、昭和6年、民芸運動創始者、柳宗悦が絶賛し、人々に紹介したからです」
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曇っていてこの時期にしては蒸し暑く、みなさん暑い暑いと
言って歩く。
背中にかなり汗をかいた。
11時過ぎ1,1000歩余を歩き終了し、
菊陽町の「さんさんの湯」へ向かう。
食事処で簡単なものを食べて、メニューが乏しく選びようも無くて・・・・・。
休んでいると地元のシニアが南京玉すだれと皿まわしの芸を始めたので見た。
ゆっくり温泉につかり、市場で野菜を買うのはおきまりで。
そこにめずらしいもの 花おくら があった。
薄い羽二重のような花びらはおおきく、開いた花はかなり大きいのでは。
レジのおねぇさんに食べ方を聞くと、さっとお湯に通して三杯酢などで ということなので買って帰る。
本当は花がふわーっと大きかったのに1晩冷蔵庫に置いたら、しぼんでしまって残念。
お湯を沸騰させたところにさっと浸けて、三杯酢にした。
すこしぬるがあり、花びらの額に近いほう(下のほう)は歯ざわりが良くてなかなかおいしいものだった。
菊のように香りはなく、歯ざわりも菊ほどになくささやかで上品でした。
花をいただくなどとは風流なものです。
開いた花の画があったので載せておく。
摘み取るとみるみるうちにしぼんでしまうという。
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昨日は終日雨が降った。
予報では午前に九州に上陸かもしれないといっていたが。
なんとなくベランダを片着ける気がしない・・・・・。
6:25AM 南側のリビングのベランダから南を見て。
日が昇ってくる。
6:50 AM 北側の自分の部屋から西を見て(金峰山系)。
いつもは見えていない向こうの山の鉄塔が白く光ってはっきり見えている。その下に白い建物らしきものも見える。
昨日の雨で大気が洗われたせいか。
7:30 AM ニュースは台風がそれたと伝えている。
今回も何事も無くてよかった。
かくして一日を無事に過ごした熊本でした。
夕刻 リビングのベランダから西を見て。
18:00 PM
見ている間にも雲の色、かたちが変わってきて、見飽きない。
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